日本の歌謡界を活気づけてくれた音楽家、馬飼野俊一氏
新型コロナウィルスが猛威を振るう国難の現在から過去を振り返ると、改めて昭和40年~50年代の日本は、音楽業界をはじめ様々な業界において最も活気にあふれていた時代であったように思う。
思い起こせば昭和44年にアポロ11号が月面に着陸し、人類が初めて月面に降り立った模様が世界中に生放送で伝えられ、世界中がこの快挙に沸き返った。
昭和45年には大阪で万国博覧会が開催され、77カ国の参加のもと6400万人を超える入場者により日本中が沸き上がった。
そして、それを境に音楽業界では、アイドル歌手が次々と誕生し、テレビやラジオでアイドル歌謡が毎日のように流れた。
まさに昭和歌謡界の黄金期で、アイドルからポップス、フォークソング、ロック、演歌に至るまで百花繚乱の様相を呈していた。
そんな時代に超多忙を極めていた音楽家がいる。
ヒット曲を次ぎから次へと生み出した偉大な編曲家であるが、その人の名前をご存じの方は少ないのではないだろうか。
アイドル歌手のファンの多くは、ヒット曲と歌手に関心があっても作家に関心を示すことがほとんどないからである。
曲は作詞家が詩を作り、作曲家がメロディーをつけ、編曲家がアレンジして出来上がる。そして歌い手が歌うことで、世間に認知されるようになる。
編曲家は料理に味付けするような存在で、巧みな味付けができる編曲家は技術に長けた編曲家である。
テレビの歌番組で、歌手が歌い始める曲のイントロで、作詞家と作曲家名が表示されるが、編曲家名まで表示してくれる歌番組は限られている。通信カラオケにおいても同様である。
つまり作家の中でもとりわけ編曲家にはほとんどスポットが当たらない。
しかし、楽曲が生き生きと味付けされ輝ける作品になるか否かは編曲家の腕次第で決まると言っても過言ではない。
馬飼野俊一氏は、昭和42年(1967年)に「あなたのすべてを」(佐々木 勉)の編曲で歌謡界デビュー。
昭和45年(1970年)に24歳の若さで編曲を手がけた和田アキ子の「笑って許して」がヒットし、その年に第12回レコード大賞編曲賞を最年少で受賞。この曲を皮切りに周りからの扱いが一変し、目覚ましい活躍をすることになる。
代表作品として昭和46年(1971年)にジローズの「戦争を知らない子供たち」、昭和47年(1972年)に天地真理の「ちいさな恋」、「ひとりじゃないの」、「虹をわたって」、アグネス・チャンのデビュー曲「ひなしげの花」、「草原の輝き」の編曲を手がけた。
当時は超多忙で、依頼者が仕事部屋の前にずらっと並んでいたと言う。
昭和49年(1974年)には森進一の「襟裳岬」、昭和50年(1975年)には北原ミレイの「石狩挽歌」、昭和57年(1982年)には細川たかしの「北酒場」と演歌ジャンルも担当。
いずれの作品も最高傑作と賞賛されているが、それは冒険的なチャレンジで挑んだアレンジの秀逸さが聴く人たちの心をわしづかみにしたからであろう。
一方、馬飼野俊一氏は作曲も手がけている。
作曲でミリオンセラーに輝いた大ヒット曲がチェリッシュの「てんとう虫のサンバ」である。昭和48年(1973年)の作品で当時、連日連夜テレビ、ラジオでこの曲が日本列島を駆け巡った。
同年には野口五郎の「君が美しすぎて」を作曲し、レコーディングがロンドンのアイランド・スタジオで行われた。この作品は同年末の『NHK紅白歌合戦』で歌われた。
このように馬飼野俊一氏は昭和歌謡のヒットメーカーとして数々の作品を手がけ、日本の歌謡界を盛り上げてくれた功績者である。
現在、74歳になられ、編曲家デビューしてから55周年になるが、まだまだ創作意欲は衰えていない。
一つの枠にとらわれない斬新な発想で、市川由紀乃の「雪恋華」と「なごり歌」、山内惠介の「唇スカーレット」と山内惠介20周年記念曲「残照」、北川大介の「星空のツイスト」などの編曲を手がけ、ヒットメーカーとして今も日夜邁進し続けている。
また馬飼野氏は、日本の音楽業界の発展を願って、「蕎麦(そば)の会」を開いて若い音楽家らと交流を深めている。
投稿:2021年2月11日
シンガープロ 安藤秀樹
君が美しすぎて 野口五郎(ロンドン録音盤)
昭和48年(1973年)5月10日、ロンドンのアイランド・スタジオでレコーディングが行われた。
同年末の『NHK紅白歌合戦』に野口五郎は2度目の出場を果たし、「君が美しすぎて」を歌唱。
【レコード収録曲 】
<font color="blue">君が美しすぎて</font>
作詞:千家和也
作曲・編曲:馬飼野俊一
JASRAC作品コード: 024-4989-7
<font color="blue">ぬれた瞳</font>
作詞:千家和也
作曲・編曲:馬飼野俊一
JASRAC作品コード:064-0096-5